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2010年5月31日 (月)

フェティシズムとしてのパッケージ(2)

 ほんとに頭の中リゾームってて、書いてるほうは麻薬的に楽しいが、読むほうはアホか?となるでしょう。Blogなんてそんなものです。でも破綻しないようにがんばるけど・・・。無理かな。

 日本語版ニューズウォークは、「あたかも世界の中に日本など存在しない」かのような編集方針に忘れず腹を立てるため、できるだけキオスク(でいいのか)で購入して読んでいましたが、ご本尊のNewsweekが身売り、というニュースが出てからの様変わり、その変節ぶり、動揺ぶりをせせら笑えて楽しい。お互いの主張にほぼ共通点のないワシントンポスト紙が「奴等は同情に値するような連中じゃないし」と斬り捨てていたのが印象的だ。
 
 身売りの話が出る前は、iPhoneを使わない人の気持ちは理解できない。iPadを入手しない者は頭がおかしい、とまで書いていたくらいだ。まるで世界救済のときが来た!みたいな書きぶり。
 それが最近では「iPadに騙されるな」、「Appleの専制を阻止しろ」、「ジョブズちね」となってきている。
 そんなこと、こっちは、ずーーっと前からわかっとったんじゃよ!

 これまで献身的に崇拝し、身も心も捧げ尽くしてきた神が、実は荒ぶる神になっちゃったという、神話世界のようなお話。やっぱ真っ先に生け贄にされるのは皆いやなんだな。全身から力が抜け途方にくれてるんでしょうね。
 
 ウォール・ストリート・ジャーナル(WSJ)が生き残ってる理由、誰か教えてもらえますか?
 私が思うにやはりフェティシズムですよね。ステータス・シンボルですから。秘書が卓上にWSJとコーヒーを置く絵づらがいいからでしょう。
 朝オフィスに来てから紙の新聞読んでるようじゃ、ウォールストリートでもどこでも負け組確定なんで、この場合(紙媒体が成立してるのは)、記事の内容じゃないですね。でもそれもいずれは消え去るかもしれない。
 北米紙パルプ業界とか良く知らんけど、この激動、ただで済むわけないし。
 言いたいことはWSJを読んでいたからその道で偉くなり成功できるのではない(無関係である)、成功した人は読んでいる(ことにしている)、という必要条件と十分条件が入れ違ってる、倒錯があるということ。

 マスメディアはどこも海外特派とか駐在とか十分な数を置けなくなってるそうで、誰もがAPとか共同通信に頼りきっちゃってるとも言われています。そういうことは新聞読んでいても書いてないよ。まあ、最近はみんなあまり新聞読まないだろうけど、ちょっとネットを彷徨ってれば色々書いてある。
 日本の話はやめようね。アメリカよりは多少延命されるかもしれない。でも命数は数えられています、とだけ言っておきます。どの道どうなってもこっちの知ったこっちゃない。

 APとか共同通信の配信受けるということは、パッケージではなく切り売り情報(この場合ニュース)がそのまま受け手に伝わる商売になるんで、新聞・雑誌はエッセイや主張で差別するしかないと言われている。でも今度はセミプロのBlogやこじんまりした地方の新聞のエッセイストとも裸の競争になる。それらにお金を払ってくれる人がどれだけいるかもわからない(でも大会社の重役やオフィスのオーヴァーヘッド、ディストリビューターのコストいらないから、記者(のグループ)が個人的に食っていければ成立するんじゃないかという説もあるそうです)。

 音楽はユニークなコンテンツの勝負でいけるから、中間業者が皆死滅しても、作り手と受け手、そしてネットワークさえ生きていれば入手可能ではある。逆に個人作家のモチベーションがあがるかもしれない(現にあがってるとも)。
 誰も音楽を聴かなくなる世界は、すみません、小生には想像できません。SFでならありだけどねえ。

 だがニューズウィークの意見も少し聴いておきましょう。「ジョブズは間違いなくコンテンツを検閲するぞ!」と叫んでいる。
 誰が検閲するかの違いだけじゃない?とも思うし、今や自他共に認める勝ち組のAppleは、かつてのMSのように当局からのリーガル攻撃に曝されることもありうるし。

 末端消費者である、私を含めた限りなく大多数の人たちにとって、欲しいコンテンツが手にはいらない事態にはならないので家族に業界関係でもいない限り無視していい。ニュースも、音楽も、検閲がどうかしらないが、逆に比較的自由に選べる権利を持てたのかもしれない(突き詰めると幻想だろうけど)。

 テレビを一切観ない人、ネットの番組表で間に合う人にテレビ欄は不要だし、スポーツに興味のない人はその記事を読まなければいいし、文化・家庭欄にページ割きすぎと怒ってる人は、そこを購読しなければいい。だいたい、新聞は要らないものを色々盛り込みすぎだ。
 ああ、そうそう、そういう意味でNew York Timesの日曜版、日曜だけものすごい大部の新聞が届く、それだけ宅配を受けるというアメリカ人は多い(多かった?)。これも一種のステータス、フェティシズムであったのかもしれません。リタイアしたおじいちゃんおばあちゃんでもなければ、一般人があれ全部読んでるわけないもの。

 パッケージとしての新聞の解体、という意味では、丁度音楽アルバムの世界と似ているのかもしれません。必要な分を必要なだけ。
 まさに成功するRPGの秘訣である「プレイヤーズ・ストーリー」、「マイ・ストーリー」と同じ、「マイ・コンテンツ」、「マイ・アルバム」、ハンドメイドのそうしたものが主流じゃないの、という串でも通しておこう。もう賢い人はとっくに気がついてるだろうから、どっかに書いてあんだろうけどね。

 とはいえ、ゲームにはまだまだ近づきませんが、こっちは別に儲からないから何書いてもいいと思っています・・・。 

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